

会社員の哲学 増補版 / 柿内正午 (零貨店アカミミ)
2023年10月発行
映画『ベイブ』を通して、柿内氏が「父性」をどのように捉えてゆくかという問いに対峙するための試論として読むことができる。
農村と都市、そして、農村を前近代、都市を近代としてとらえる図式は「はっきりと知的後退である」(p60)と氏は述べる。
「父性」という概念自体が近代的な構造の中における形式であるのならば、最早「父性」は形骸化していると言えるのではないだろうか。
それでも。形骸化してまでも残り続ける「父性」とは何であろうか。という問いを敢えて“構造”という観点から解きほぐし始めるための序論が本書である。
「はじめに」もあるように、本書は氏が問い続けてきた“会社員の哲学”の続編としても捉えることができる。
「会社員」から「父」へ。本書を前にすると主題の展開の滑らかさに瞠目するばかりだ。
以下、発行元HPより抜粋。
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映画『ベイブ』を丹念に見つめることで、「現代における父性とはどのようなものであるべきか」という大きな問いに挑む。
映画を見るとはどういうことか。映画の表層だけを注視するのでもない。かといってありもしない深さや奥行きに捉われもしない。ただ「自分にはこう見えた」というひとつの視点をそのままに差し出すこと。画面上から読み取れることだけを記述しているはずなのに、なぜか生じる盲目と明晰の差異が際立つ。
自分の立場からものを考えるとはどういうことか。それは単純に「弱さ」の側にも「強さ」の側にも居直れない、複数の論理や構造の上での自身の中途半端な現在地をなるべく手放さないという絶え間ない持続である。わかりやすいポジションなど、個人にはとれはしない。
何度も何度も同じ映画を繰り返し見て、自分が何を見逃し、どんなありもしないものを幻視してしまっているのかを確認する。そうして自分の現在地を測る。「親」を引き受けることにいまだ躊躇う大したことない個人のありよう。
誰もが「子供」の立場から立ち去りたがらず、ありもしない「親」をでっちあげては怒り、悲しみ、疲弊していく状況がある。自らの夾雑物やずるさや構造的優位や鈍感さを誤魔化さず、それでもなおよりマシな未来のために個人が「親」的な立場を引き受けるための準備運動。それが『『ベイブ論』です。
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発行元:零貨店アカミミ
発売年:2023年
判型:新書判
頁数:88p
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